私の漢方修行 ―鍋谷欣市―
  昌平クリニック院長の鍋谷欣市先生は食道癌診断治療の世界的権威。また外科領域での漢方治療の先駆者として、80歳を向かえた今日も、第一線で診療に当たられている。漢方を始めたきっかけと、後進への助言をお伺いした。 月刊「漢方療法」 Vol.11 No.12 (2008-3)

iconきっかけは博愛心
  私の出身は青森市、私の家は医者じゃありません。私は軍人になるつもりで、青森中学から陸軍幼年学校、予科士官学校に進みました。東京では大空襲があり、予科士官学校にも弾が落ちて死ぬ人もいたので、群馬県の新鹿沢にあった演習場へ半分くらいの学生が疎開し、山の中で終戦を迎えました。戦争に負けて、どうしようかと思案しました。

  昭和10年代は、軍人になるのが当たり前という時代でした。中学の1、2年生の頃から軍人を目指し、仙台にあった幼年学校へ入ったのです。幼年学校で3年、予科士官学校では、1年学び昭和20年敗戦になり、郷里に帰ってきたのです。

  郷里に帰ったものの、青森市内の実家は焼夷弾で焼け出され、父の故郷である三内丸山遺跡にほど近い、大釋迦村に疎開したところ、ここが無医村でした。敗戦の歳末に祖母が心臓病で倒れ、雪の中を1時間ほど走り、病院の先生を呼びに行ったところ、医者は来られず、結局祖母は亡くなったのです。死亡診断書も医者が来られず、話だけで書いてもらうという始末でした。これでは駄目だと思い、肉親や親戚は自分で診てあげたいと思い、医者を志しました。そして旧制弘前高校から千葉医科大学へ入ったのです。きっかけは無医村に対する、博愛心と申しますか。

  千葉医科大学は、当時まだ4年制でした。旧制高校が現在の大学の教養学部に相当し、本格的な医学の勉強は大学に入ったときから始まるのです。たまたま大学に入るとクラブ活動の募集がたくさん来るのです。そこに「東洋医学研究会」というのがあったのです。大学としては全国でも最初であったと思います。私が入った時は、再発足2年目にあたりました。設立は10年前に遡りますが、戦争中は休んでいたのです。たまたまそこで色々なお話を聴いて、「よし」ということで入ったのです。

  東洋医学は部活動なので遊びのつもり、軽い気持ちでおりました。ですから、同時に絵画部やエスペラント語部にも入りましたが、主力は東洋医学研究会でした。

icon経験医学の中には真理がある
  当時、伊東弥恵治という眼科の教授が研究会の顧問をされていました。医学に熱心で、古典・歴史に非常に詳しい先生でした。その先生が絵も大好きでよく絵を描かれたので、趣味も同じということで、その先生を尊敬していました。また、先生が書かれた論文の中に漢方のことを、「東洋医学は経験医学だから駄目だと一般の人は言うけれど、私は、逆に経験医学だから、その中には真理があると断ずる者である。実験研究はあくまでも研究であるけれど、本当の真理は、経験を積み重ねた中にあるのだ」と、そういう言葉を非常に強調された論文がありました。その本を学生側の代表としてお預かりしたものですから、一生懸命に読みまして、「成る程」と感激したのです。ですから、経験医学の中にこそ本当の真理があるのではないかと思い、東洋医学にのめり込みました。

  私が入った頃、研究会の先輩に藤平健先生と長濱善夫先生、小倉重成先生がおられました。長濱先生は45歳の若さで亡くなったのですけれど、そういう先輩の先生がいまして、いつも毎週木曜の夕方、先生方が診療や講義が終わった時間に、漢方本を読む輪読会があったのです。眼科学教室の生薬室でしたが、そこに私は、学生で一人参加し、藤平先生、小倉先生にもよくご指導を頂きました。先生というよりも兄貴分という感じでした。その頃、昭和25年、大学の2、3年の頃から上野の池之端の奥田謙蔵先生の所に、月に2回位通ったのです。藤平先生、長濱先生、小倉先生の師匠になる我々の大先生なのですが、そこでやはり漢方古典の本を読んで、先生が解説して下さる会があり、『傷寒論』『金匱要略』『類聚方広義』というのを学生の分際で勉強したのです。

  昭和28年インターの頃、奥田先生の引越しの手伝いをしました。その引越しは、私と藤平先生とで行くことになっていたのですが、引越し前日に、藤平先生のお母様が急に亡くなられ、私一人が手伝いに行ったのです。そこで、より一層お近づきになれました。その時に先生から頂戴した手沢本の『古方便覧』と先生自詠直筆の「七言絶句」は私の宝物です。学生の頃にそういう大先生から教えを乞うことができたのです。

  今は出来ないのですが、当時は学生でも助手として診療ができたので、小倉先生の自宅の留守番をしたり、小倉先生と一緒に木更津の証誠寺の住職に宝生流の謡曲を習いました。これもある意味では古典に親しむということになったのです。藤平先生の自宅にも半年ぐらいずっと下宿して、土日は私も診療を手伝っていました。

  鍼灸の西澤道允先生のお宅にも時々お邪魔して、鍼灸治療の事も教わりました。ですから、漢方に接する機会は非常に多かったのです。

icon七難八苦に好んで行く
  卒業の頃に進路を考えたとき、眼科の伊藤先生に誘われたのですが、やはり私は好きな道がよいと思って、外科の中山恒明先生の所に進もうと決めました。中山外科はいちばん怖くて、厳しくて、あまり暇のない教室なのです。しかし、いちばん張り切って仕事をやっていた教室なのです。漢方の藤平先生、小倉先生とも眼科ですけれど、私は外科に進むことにしました。

  私は昔から厳しいところへ行くのは、好きだったのです。のんべんだりとするよりも、忙しくやったほうがよい、学問も自分でやったほうがよいと考えていました。暇な教室ではなく、厳しい教室を選びました。

  私が教授になった時、教室員に「自ら艱難の苦しい道を選ぶのだ。右にするか左にするか、もし迷った時は、苦しい方の道を歩みなさいと。そうすると、進んだ道に後で決して後悔がない。易しい方の道を歩み、それを苦しく感じると、あっちの道を行けばよかったかなと後悔するだけ。いちばん苦しい道を進むのだから、これ以上の苦しみはない。だから後悔はないのです。よい道を選ぼうとすると、後悔することが多いのです」と話したことがあります。

  山中鹿之助は「我に七難八苦を与えたまえ」と祈った武将ですが、「七難八苦に好んで行く」ということは、漢方を学ぶために案外必要かと思います。

icon外科の手術に漢方を使う
  私は外科に進み、しばらくは漢方をやれないと思っていました。「私は、外科を専攻するから、多分こちらへは来られないと思います」と奥田謙蔵先生に申したら、奥田先生が「私は皇漢医学を学ぶからといって、西洋医学を無視し排斥するものでは決してない。むしろ西洋医学には、皇漢医学の夢想だにしない長所もある。東西医学の長所を統一して、新たな東洋医学を勉強してほしい」と前述『古方便覧』を貰いました。

  そのことは、奥田先生も自分の本に書いておられるのです。「決して東洋医学だけではない、西洋医学にもお互いに長所はある」と認めておられましたから。

  しかし私はとても忙しくて、手術の後は患者さんのベッドの下に寝たこともありました。いつ変化や異常があるかもしれないと、四六時中診なければならないのです。1週間家に帰らないこともザラでした。もちろん独身でしたからね。結婚してからも数日帰らないこともあったのです。

  考えてもご覧なさい。野球だって何だって、トレーニングをちゃんとしなければ絶対うまくならないのです。

  漢方はやれないと思っていましたら、2、3年して、私が学生時代に漢方を学んでいたことを中山先生が知っていたわけで、「ある患者が胃癌の手術をしたが手遅れで、もうどうにもならず、腹を閉めてしまった。だが、漢方を飲んだら治ってきた。だからお前、その飲んでいた漢方を調べろ、学生時代やっていたんだろう」と言われたのです。

  「この漢方を調べろ」と先生からテーマを貰った結果、WTTCという薬を作ったのです。その中には10種類くらいの生薬が入っていたのですが、その中にあまり知られていない抗癌作用のあるものを調べて見つけたのです。それは「藤の瘤」 と、「菱の実」「訶子」「ハトムギ」で、この4種類を混ぜ、その頭文字をとってWTTCと名づけた処方です。昭和34、5年頃、癌学会で2度ほど発表したことがあります。今日のような実験設備のない時代でしたから、この研究は大変苦労しました。WTTCを煎じたエキスを、癌を移植したマウスやラットに飲ませて生存率を見るのです。その生薬に抗癌作用があったのです。絶対に治るとはいいませんが、中には治りかけの人で効く人もいるのです。いわゆる抗癌漢方、抗癌生薬というものを試作したのです。

  こうして、千葉大学にいる頃から、いくつかの処方は外科の教室でも作っていました。千葉大学には、生薬室もあったのです。昭和48年に杏林大学の教授になってからは、大っぴらに漢方も使いました。手術前のお腹と、手術後のお腹の違いを診て、私は外科における漢方を展開させていきました。

icon万事師匠からそのまま学べ
  学生時代に私はお茶も習いましたが、「最初は全部、先人の通りにやりなさい」と、教えられました。山上宗二の『茶道者覚悟又十体・茶道年来稽古』に、「十五歳から三十歳までは万事師匠に任せ、まったく教えられた通りにする。その後に自分の考えを入れ、さらに反対の方法を行って、自分なりのものが編み出されるようになる」とあります。腹診の方法も最初は奥田先生の手つきで、まったく奥田先生そのもののように私は学びました。外科の手術も、最初は自己流を入れない、全部そのまま学ぶ事がいちばん大切です。もし漢方をやるのなら、自分が尊敬しているその人のやり方を、一切疑問をはさまず真似ればよい。それから、敢えて言えば、薬の成分の勉強も一緒にやったほうが、案外、早く上達します。そして夢中になる時期がないといけません。一度は何としても夢中になって、漢方に取り組んでほしいのです。

  また、よい先生に付くということも大切です。ただ、これがなかなか付こうと思っても出来ないですね。半分は運命だと思います。出会いとは、運命だけれども、探せば出てきます。お嫁さんを貰うようなものでしょうね。世の中の風潮とかとは違います。自分に合った相性というものもあるから、運命だと思う。でも、自分が努力をしていると、そういう人に会うのではないかと思います。自然に合う先生が出てくるのだと私は思います。

iconクリニックを引き継ぎ学究の日々
  昌平クリニックは、昭和58年に開設されました。藤平健先生が、中将湯ビルの金匱会診療所に行かれた頃、湯島にもう一つ設けるといわれて出来たのだそうです。藤平先生が暫くやっていましたが、「疲れるから」と、私が大学を辞めるのを知って、「お前がまだ外科をやるのも大変だから、俺の後を継いで、ここで漢方をやってくれよ」と言われました。私がここの院長に就いたのは平成5年4月、杏林大学を定年になった年です。

  私と藤平先生との関係ですが、昔から藤平先生、小倉先生とは、スキーをやっていたのです。スキーの方では私が両先生の兄貴分だったのです。漢方の方は両先生が兄貴分で、共に奥田謙蔵先生の弟子でした。このような関係で「鍋ちゃん、やってくれよ」と言われ、まあそうだなあということになりました。それに赤坂の病院で手術もやっていましたので、手術するところもあり、漢方もやりかけていたので、「本格的にやるか」と引き受けました。引き継いで15年になります。

  院長を引き受けた最初のうち、藤平先生は千葉の方で診療して、ここにも来ていたのですが、そのうち段々体調を崩し、今から10年ほど前に亡くなられてしまったのです。

  私はここを引き継ぎましたが、全部予約制で、自由診療ですから、学会にも出席できます。患者さんは日本中から来ます。インターネットを使ってちょっとホームページを立ち上げたら、また増えました。最近多いのは潰瘍性大腸炎の患者さんです。私は胃腸病の患者さんをよく診ているのですが、新しく桃黄湯という薬を創成しました。桃黄湯は、桃花湯に黄土湯の一部を加えたものです。5年くらい前に日本東洋医学会に発表してから、毎年研究発表をしています。

  最近の新しい研究を次の日本東洋医学会に発表しますが、人体の寒熱について、人体の各部の体温を瞬間温度計で調べ、冷え性について発表します。寒熱は、その人の陰陽虚実を現すもので、案外大切かと思います。寒熱とはどれくらいの寒と熱があるのか、ということを突き止めようかと思っています。

月刊 「漢方療法」 Vol.11 No.12 (2008-3)より


hr

icon 漢方治療は、その時のその人に合った薬を微調整するオーダーメイド処方です。
当クリニックでは、経験豊富な漢方医があなたに合った治療を提案します。お気軽にご相談ください。

潰瘍性大腸炎相談コーナーへ


Copyright(C)昌平クリニック.記事の無断転載を禁じます