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■ No.9 ■ 2008. 3.12発行
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(なべや   きんいち)
昌平クリニック 院長

 JR中央線・総武線、お茶の水駅のプラットホームから見える神田川の下流方向に大きな橋がある。これを聖橋という。南側にあるニコライ聖堂、北側にある湯島聖堂、この二つの聖堂を結ぶ橋ということから、昭和初期からこう呼ばれている。
 聖橋を渡り、孔子像や神農像がある湯島聖堂の銀杏並木を湯島天神の方向に歩く。江戸時代、湯島聖堂の敷地は今よりもだいぶ広く、ここに江戸幕府の教育機関・昌平坂学問所(昌平黌)があった。昌平とは孔子が生まれた村の名前だ。
 この近くに昌平クリニックがある。その院長・鍋谷欣市先生を訪ねた。

 昌平クリニックは、昭和58年に故・藤平健先生を中心に開設された漢方専門クリニックとして全国に知られている。鍋谷先生は平成5年から院長職にあり、全国から難病の患者が通院している。
 鍋谷先生は、昌平クリニックの伝統ある漢方の佇まいをしっかり守り、発展させている名医であると同時に、漢方界に大きな功績があることでも知られている。漢方を外科分野に応用したパイオニア、外科漢方の草分けなのである。
 現在、漢方を知らない外科医でも開腹手術後に患者が陥る腸管癒着や腸閉塞(イレウス)症状の第一選択肢といっても過言ではない大建中湯。さらにがん患者への漢方薬の応用も、がん専門病院や大学病院で行われる時代になった。これを半世紀前から実践し研究、後進の指導を行ってきたのが、鍋谷先生である。
 さらに、多くの漢方医、漢方薬剤師を排出して今日の漢方界を支えている千葉大学東洋医学研究会(以下、千葉大東医研)出身の長老メンバーにも名を連ねている。
 挨拶が終わった。傘寿を過ぎたとは思えない目の輝き、温かくも年齢を全くと言っていいほど感じさせない張りのある声に驚いた。



志願して陸軍幼年学校へ。昭和ひと桁世代、「無医村の医者に」
―― 外科医として漢方を極めてこられたわけですが、いつまで手術を担当されてきたのですか?

鍋谷  75歳でメスを持つのをやめましたが、やろうと思えば今でもできます。加齢による視力とか手の動き、判断力とかの衰えには個人差があるでしょう。まだまだ大丈夫のようで、家族に手術が必要なら自分でするつもりでいますからね。(笑)

  【略歴・昭和2年青森県生まれ。昭和27年千葉医科大学(現千葉大医学部)卒業、翌年同大学医学部第2外科入局、講師、助教授を経て昭和48年杏林大学医学部第2外科教授。平成5年に杏林大学を定年退職名誉教授、同時に昌平クリニック院長に就任】

―― 昭和ひと桁の最初の世代ですが。

鍋谷  父は国鉄職員で、旧制青森中学2年の時に陸軍幼年学校を志願、運よく合格しました。国を守る・家族を守るというごく普通の少年でした。やがて陸士の予科に進み、都合3年半の軍隊生活で戦地には行かず終戦を迎えました。あと少し戦争が長引けば今ここにはいない、という世代です。

―― 終戦後は。

鍋谷  空襲で青森の家は焼け、父の実家の青森市郊外に落ち付き、旧制弘前高校に入りました。昭和20年の冬、祖母が早朝に具合が悪くなってね。そこは無医村で、雪の中を町まで医者を呼びにいったのですが、医者は来てくれませんでした。来てくれても助からなかったと思いますがね。死亡診断書を書くのにもしぶしぶ聞き書き、当時の田舎ではそんな医療状況だったのです。それで医者になろうと思ったわけです。

 

千葉医科大学(現・千葉大学医学部)千葉大東医研、2年でキャプテンに
―― 大学に入ったのは昭和23年。

鍋谷  そう、まだ千葉医科大学と言っていた時代で、習志野の航空隊の兵舎跡が学生寮で名前が『人生希望寮』でした。医者になるという目標が、夢を失った私の“希望の光”みたいな感じでしたね。

―― 東洋医学、漢方との出会いは?

鍋谷  藤平(健)先生や小倉(重成)先生はひとまわり上の世代で、千葉大東医研は復活して、学内で東洋医学の自由講座をやっていましてね。あらゆる知識を吸収したいと仲間を誘いあって参加しました。初めての受講は入学した年の6月19日、第21回の講座からです。真面目に出ていましたね。印象に残っているのが、昭和23年10月16日の伊東彌惠治先生の講座です。インド医学のススルタ・サミータ大医典に関するもので『インド医学はギリシャ医学と似ているが決して模倣ではない』、当時漢方も含め東洋医学の深い部分を熱く語られたのを記憶しています。

―― 伊東先生はどのような先生ですか?

鍋谷  眼科の先生で非常に厳しい先生でしたが、漢方の古典などを数多く所持され、それを千葉大東医研に管理させて、私も含め大いに触発させられました。『東洋医学は経験医学だからこそ真理がある』というフレーズなど今でも頭に残っています。
 それに、この雑誌の巻頭論文、昭和23年に伊東先生が書かれたものですが…結局、私がいただくことになったのですが…。

 
【『日本歴史』昭和23年4月号、伊東彌惠治氏から拝借したという雑誌だ。表紙には『この文献は手許に一部しかないので保存したい。用のすみ次第ご返却を願いたし』とペンで書かれている。
 その中は『明治医学に影響したる外国文化』という伊東氏の論稿で、緒言には<明治以来の日本の医学は、その発展の速度においては世界に誇るべきものがあるが、現在は転換期に差し掛かっている。明治以来の医学に大きな反省をすると同時に、新たなる発足の旅装を整えるべき時代がきたのである>とある。
 そして<漢方は、全体医学的立場にあるものであって、その原理も実際も、西洋で発展した解剖学的器官医学とは異なるものである。しかも永年の経験と実績とを示しているが、これを排するものは経験医学だからよくないという。私は逆に経験医学であるからこそその中に真理があると断ずるものである>(伊東彌惠治氏著・筆者要約)というのが論稿のテーマだ。鍋谷先生は、大学2年時には千葉大東医研のキャプテンにつき、千葉大東医研のリーダーとなっている】

 

当時の詳細メモのノートを大事に保管
―― 千葉大東医研の開催日までよく覚えていらっしゃいますね?

鍋谷  それはこれです。講義の日付まで書いてあるでしょう。
(先生は、時の流れで色づいた大学ノートを見せてくれた。その時の講義内容を記したメモが、他人が見ても分かるような的確かつ丁寧な文字で書かれてある。大学入学時からのノートを今でも残していたのだ)

 

文部省への千葉医科大学東洋医学研究所設立趣意書も目撃
―― この時期に千葉大から東洋医学研究所の設立要望書が出ていますね。

鍋谷  伊東先生が文部省に対して提出した、『千葉医科大学東洋医学研究所設置趣意書』というもので、自由講座の千葉大東医研を発展させ、正式な研究所として学内に認めてもらおうとしたのです。まだ日本東洋医学会が発足しておらず、この時期に出している熱意は素晴らしいもので、その趣意書は千葉大学千葉大東医研の歴史だけではなく、日本の東洋医学の歴史からも特筆すべきものです。千葉大学に漢方講座が正式にできたのは、それから半世紀あと、千葉大学千葉大東医研出身の寺澤捷年教授が富山から転任した3年前のことですからね。

 

藤平健、小倉重成両先生らと親しく交流
―― 藤平先生、小倉先生との交流は?

鍋谷  毎週木曜日、大学の眼科教室で輪読会をやっており、藤平、小倉の両先生が参加されていました。それに月1回の千葉大東医研でお会いしますから、親しく教えていただきましたね。藤平先生のところでは1年間下宿していました。代診をしていたこともあります。“若先生”なんて呼ばれて。その当時はそれも可能だったのです。お二人からはさまざまな漢方の考え方の指導を受けました。ただね、毎年、正月には仲間でスキーに行くのが恒例でね。北国生まれの私はスキーが得意で、この時ばかりは先輩方のスキーの“先生”になっていました。ほかに親しくしていたのは和田正系先生、伊藤清夫先生、石野信安先生らです。

 

学生時代に奥田謙蔵氏から注釈入りの『古方便覧』
―― 奥田謙蔵先生とも親しく交流されていますが?

鍋谷  藤平、小倉両先生が勉強会に参加されていましたので、私も昭和25年に入会を許されて末席で、根津(現在の上野・池之端)のご自宅まで伺い、月2回の勉強会に参加させていただきました。『傷寒論』、『金匱要略』、『類聚方広義』の講義を受けていましたね。
 奥田先生にいただいた、『古方便覧』は私の宝ものの一つです。ここにも飾ってあるでしょう、この詩もね。


  (診察室の壁には、原稿用紙にペンで書かれた漢詩が書いてある。『古方便覧』は、吉益東洞校閲、六角重任筆記の文化3・1806年に出版されたもので奥田氏の手に入る前に2人の持ち主の書き込み、さらに奥田氏の丁寧な書き込みがあるものだ)

―― いただいた経緯は?

鍋谷  昭和28年の2月に奥田先生は根津から市川に引っ越しなされ、私がお手伝いにうかがいました。一段落すると風呂敷包みを出され、開けてみると紅白の水引に“鍋谷氏に進呈分 古方便覧”と墨痕鮮やかに書かかれてあったのです。中に古方便覧、先生の七言絶句、過去に書かれた論文刷りが入っていました。もう飛び上がらんばかりの感激は、今でも忘れることができません。

  額の七言絶句
 
  昭和二十八年元旦
   歳端祥瑞満乾坤
   四海春風滅凍痕
   癸巳改年初一日
   小齋先讀古方論
       炊煙生
  (炊煙は、奥田謙蔵氏の雅号。意訳・歳のはじめにおめでたいしるしが天地に満ちている。あらゆる場所に吹く春風は、きびしい冬のてついた痕もとかしてくれる。癸巳はこの年の干支。元旦の日。わがささやかな書斎で、まず読むのは古方論)

 

第1回 日本東洋医学会大会を目撃
―― 昭和25年の第1回日本東洋医学会には?

鍋谷  私は、学生のお手伝いとして準備の雑務をやっています。現在の役割でいえば、会頭は伊東彌惠治先生で、実質的には龍野一雄先生が実務的なことをおやりになる準備委員長という感じですか。大塚敬節先生、矢数道明先生はまだ40代、奥田先生は御高齢で体調も良くなかった。それで大学教授である伊東先生がお引け受けしたのだと思います。私は伊東先生の指示で、本郷春木町(現在の本郷3丁目)にあった龍野先生のご自宅にお邪魔して準備のお手伝いに通いました。
 当時の東洋医学会のチラシ、東洋医学会雑誌に相当する紀要は、龍野先生が自ら鉄筆でお書きになり、謄写版で印刷したものです。
 第1回大会は、昭和25年の3月12日慶應義塾大学医学部の北里講堂。私は龍野先生と一緒に新宿の中村屋まで、懇親会のつまみの買い出しに行ったのを覚えています。まだ食糧難の時代、酒はどぶろくみたいなもの、つまみは乾き物だったと思いますね。
 会員としては60数名の記録が残っていますが、実際の参加者は40名ぐらいだったと記憶しています。

 

外科に進んで、抗がん生薬探索。日本癌学会にも発表
―― 外科に進んだのは?

鍋谷  伊東先生は眼科がご専門、藤平、小倉の両先生も眼科でした。伊東先生は昭和26年に脳卒中で倒れられ直接教えを請うことはできない状況もありました。より困難で幅広い応用がきく外科の道を選びました。第2外科の主任教授は中山恒明先生で、私が漢方を勉強していたこともご存じで温かく見守ってくれましたね。世間では『外科医が漢方なんて』という雰囲気でしたから。うれしかったですね。

―― 外科で漢方を始めたのは?

鍋谷  それは、胃がんで手術をしようとお腹を開けたけれど、手遅れて閉じてしまった患者さんが、漢方薬を飲んで、治ってしまった――ということがありました。当時は手術しないで生き延びるなどありえないと考えられていましたから。その煎じ薬を聞き、抗がん生薬を検索するよう中山教授から正式に命じられたのが昭和32年ごろでした。医学界全体を見てもこのころから薬でがんを治す研究が盛んに行われるようになり、抗がん剤となる物質の検索自体、漢方の研究というよりごく当たり前の手順だったのです。

―― その結果は?

鍋谷  藤瘤、菱実、訶子、苡仁の4種に絞り込んで抽出液を作り、マウスの腹水がんを改善する効果があり、臨床でも効果を示したのです。これを学名の頭文字をとってWTTCと名付けています。日本癌学会雑誌(1958年vol 49、1960年vol 51)、日本医師会雑誌(1959年第41巻12号)などに発表しています。

  (とはいえ、千葉大学附属病院の消化器外科で手術をこなし、漢方薬はまだ保険適用されていなかった。昭和48年には杏林大学の外科教室の教授に就任)

 

杏林大学外科教授となって系統立てて外科漢方を研究
―― 外科漢方の研究は、どういう発展を。

鍋谷  最初はがん患者で、手術できない患者、手術しても転移や手立てがない患者に対して、漢方薬でQOLがよくならないか――という発想でした。外科医なら誰でも思うことでしょうが、開腹手術後のイレウスに悩みます。杏林大学に移ったころ『China Medicine』という雑誌に、腸の中に漢方薬を入れておくと術後のガスが出やすいという論文があり、これを追試しようと始めたのです。扶正理気湯という漢方薬を縫合直前に腸の中に注入する、術中投与という形で試みています。便を出やすくする大黄、芒硝が入った桃核承気湯に似た処方なのです。その他にも三黄瀉心湯は術後の便秘に使っていました。本格的には昭和51年にエキス製剤が健康保険適用になって、杏林大学で外科領域における漢方薬の応用を系統的に始めました。
 外科では術後の体力回復に補剤である十全大補湯の研究をしたり、小柴胡湯の肝機能改善について和漢薬シンポジウム(和漢医薬学会の前身)などで講演しています。

 

イレウス改善、大建中湯の研究の端緒も
―― 大建中湯は現在、術後イレウス患者の第一選択肢といっても過言ではないほど普及していますが、先生の研究はいつごろですか?

鍋谷  昭和60年に術後の便秘に大建中湯を投与して有効という発表を行っています。その後、他の先生が胃管から注入して単純性イレウスに有効であったという報告があります。私は平成2年に術後イレウス患者に大建中湯を投与して、腹壁サーモグラフィーで調べると、投与後に温度が上昇し軽快、腹部の血行を改善していることを発表しています。このあたりから大建中湯が注目されてきました。他の先生方も積極的に臨床での応用や作用機序を解明したのはここ10年のことでしょう。

  (昭和54年には三多摩漢方臨床研究会を設立、昭和60年には消化器外科漢方研究会を設立、平成4年には外科漢方研究会を設立し、外科領域での漢方薬の応用について積極的に発言、後進の指導にもあたってきた)

 

新しい時代の漢方のあり方もある
―― 外科漢方の極意のようなものは?

鍋谷  漢方には華佗の時代から外科はあったといいますが、近代医学における外科とは全く違うものです。現代は外科手術によって内臓の欠損や経絡の変更を招きながら生存するケースも可能な時代です。漢方は欠損状態の時にいいという面がありますが、それは過去の文献などにはないこと。食道を切除した場合、胃を切除した場合と病態が違う。新しい検査法、治療法が発達した現在、漢方も新しい使い方があることを真摯に研究していかなければなりません。

―― 漢方界については?

鍋谷  常に発展する漢方の道を模索していくこと。常に患者さんの前で、正しい薬は、治療法は何なのかを考えることなのです。

 

潰瘍性大腸炎の難病に漢方薬で挑戦、効果を発揮
―― 新しい漢方の研究もおありですね?

鍋谷  西洋医学では治しにくい難病にこそ、と挑戦しています。その一つが急激に増えている潰瘍性大腸炎に対する漢方治療、古典的な桃花湯と黄土湯変方を組み合わせ。新しい桃黄湯を創成しました。平成15年から毎年日本東洋医学会で発表。すぐれた効果を発揮し続けて5年になります。最近は瞬間皮膚温度計を駆使して、臨床に立脚した冷え症の解明に情熱を注いでいます。常に新しいことを考えていたいですね。

 

茶道上達の道と漢方上達の道
―― 若い漢方を学ぶ人のために

鍋谷  年代は一応の目安ですが、20代は師匠、先輩のいうことをそっくりそのまま一心不乱に学ぶべし。30代からは、半分ほど自分の考えを入れて研究、40代からは、師匠と反対の方向に思いきり進む。自分なりのものが編み出されることになろう。50代以降は、師匠の教え通りにする。この時の師匠とはあらゆる道の名人や達人の所作を手本にして、より一層の発展に努力すること。
 これは千利休(1522-91)の時代に活躍した茶人の山上宗二の『茶道者覚悟又十体』の中にある茶道の稽古の心構えにある言葉を引用したものです。

―― 茶道を?

鍋谷  一応、宗流の奥伝です。利休の孫の千宗旦の弟子で四天王のひとり山田宗の流れなのです。そこで“方寸匙の点前”で奥伝を。漢方薬の匙加減の匙で、お客様に差し上げるとき、茶を匙で手の甲に垂らし、それを舐める。これは毒見の所作なのですが、味を確かめ、お客様におもむろに差し上げるということなのです。まあ家で女房と茶を楽しむぐらいです。クリニックにも茶筅は置いてありますよ。湯沸かし室で茶を入れて自分で楽しんでいます。

 

あえて「艱難の道を歩む」
―― 好きな言葉は

鍋谷  「失意泰然、得意冷然」。恵まれない時期やどん底にあってもへこたれずに凛として意気盛んで、絶頂にあっても冷静に――。漢方を考えると、先輩方は、漢方が排斥された時代でも泰然として頑張ってこられた。現在は、過去と比べ、頻繁に各場面で使われるようになったけれど、漢方医学はうぬぼれてはならない。冷静にさらなる深い努力を怠ってはならないということ。
 それと「艱難の道を歩む」ということ。私自身これからもそうありたい。前に話した潰瘍性大腸炎など難病に苦しむ患者さんに漢方の可能性を見いだしていきたいですね。

―― 今日はありがとうございました。


<取材を終えて>

 戦後の漢方復興の契機は、昭和25年の日本東洋医学会設立の第1回大会だ。現在の漢方の発展はここに始まっている。ガリ版刷りの案内、日本東洋医学会雑誌に相当する紀要を謄写版のインクまみれになって手伝っていた。受付をやり、懇親会のつまみを買出しに走った学生が鍋谷先生だった。その日本東洋医学会創世記を目撃している数少ない医師のひとりなのだ。
 驚いたのは学生時代の講義録のノートをすべて保管していた。しかもそのメモは他人が読んでも理解できるほど要点を的確に記している。いまや直接教えを受けた人は皆無といっていい昭和漢方の伝説的理論派・故・奥田謙蔵先生の最後の弟子でもある。
 茶道や書をたしなみ、歌を詠み、絵も描く。毎年手製のカレンダーもクリニックの待合室に飾る。
 傘寿にしてなお『艱難の道を歩む』と、静かに力強く語る源泉に思いを馳せた。
 ずうっと気になって、どう挿入しようかと迷った談話が一か所ある。
 千葉医科大学の2年時に千葉大東医研のキャプテンになった時のエピソードだ。
「本当は、2年先輩の根本克さんがキャプテンのはずでした。彼は海軍兵学校あがりでね。私が1年の時に彼はヨット部にも所属して東京湾に出て、海が荒れ、故障し遭難したのです。このままではみんな死ぬ、泳ぎが得意な彼は、ひとり荒れ狂う海に飛び込み岸に向かって泳ぎ、助けを求めたのです」
 その結果は、ヨットに残った人たちは偶然に通りかかった船に助けられ、根本氏だけが遭難死したのだという。
「仲間内では、“冷静に待つべきだった、あいつはバカだ”“いや勇気ある行動だ”と意見は分かれましたよ」。
 鍋谷先生はここで話を止めた。あえてその後を聞くのを遠慮した。
 自らも志願して陸軍幼年学校へ進み、戦地に向かう前に陸軍士官学校で終戦を迎えた鍋谷先生、海軍兵学校あがりの根本氏の心情をわが事のように感じたはずと確信している。
 戦後、時代が変わり、故郷の無医村で「医者になろう」と鍋谷先生は思った。それはある意味、“命ある限り”という、この時代を生き抜いた人の覚悟のようなものが存在していたのではないだろうか。それをずっと持ち続けて、そして、これからもそうなのだろう。

(取材・文 ジャーナリスト油井富雄)


 
(文責:協和企画)

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